文化財の紹介

木原城址

『『木原城址出土金銅製観音菩薩立像』の画像』の画像

霞ヶ浦南岸にあり、村民から「城山」と呼ばれ親しまれてきた歴史遺産です。この城址の特徴は、三曲輪、二曲輪、詰曲輪(本丸)と行くに従って、標高が低くなる点です。
 しかし、北側は霞ヶ浦に連なる湿地帯や池となり、南側には堀や土塁などが配され、厳重な防衛線となっています。いつ、誰が築いたか定かではありませんが、一説には戦国時代末期、江戸崎城主・土岐氏の家来、近藤氏の築城と伝えられています。

『木原城址』の画像

 

毘沙門天立像(県指定)

『『毘沙門天(県指定)』の画像』の画像その昔、源頼朝が石橋山の合戦で敗れたとき海に流した守護神像が、美浦村の霞ヶ浦に流れ着いたと伝えられています。寄木造りと呼ばれる方法でつくられ、高さは167cm。目を大きく見開いた憤怒の形相は、仏の須弥山を守る四天王の一人に数えられるにふさわしいものといえます。
 鎌倉時代の作とされ、県の有形文化財に指定されています。

 

丈六薬師如来立像(県指定)

『丈六薬師如来像』の画像

高さ4.8mにもおよぶ県下最大級の木造仏で、「丈六の薬師」と呼ばれています。もとは蔵後池のほとりにあった旧薬師堂に安置されていました。現在は妙香寺に移され、お堂も近年新築されています。室町時代の作とみられ、顔立ちは豊満な中にも威厳がうかがえます。
 県の有形文化財に指定されています。

 

虎の刺繍(県指定)

『虎の刺繍(県指定)』の画像

天文23年(1554)、木原城主近藤利勝の娘、時姫が永厳寺に寄進したと伝えられています。絹地に色糸で表現された竹林の中の虎は、勇猛な戦国時代を反映して、今にも飛び出してきそうな迫力。
 県の有形文化財に指定されています。

 

信太入子ノ台遺跡出土蔵骨器(県指定)

信太地区の信太入子ノ台遺跡(しだいりこのだいいせき・現在のJRA美浦トレーニングセンターの乗馬苑)より出土した蔵骨器(ぞうこつき・骨壺のこと)は、発掘調査によって土坑の中に丁寧に埋められた状態で出土しました。3点とも8世紀末~9世紀頃に作られたもので、蔵骨器の中には焼けた骨が納められていました。第2号および第3号蔵骨器は無傷の完形品です
第1号蔵骨器は、須恵器(すえき)とよばれる灰色をした焼き物です。甕(かめ)のふたには盤(ばん)と呼ばれるお皿が転用されています。
第2号蔵骨器は灰釉陶器(かいゆうとうき)とよばれる木灰を水に溶いたうわぐすりをかけて焼いた焼き物で、ふた付きの短頸壺(たんけいつぼ・くびの短いつぼ)です。つぼとふたは同時に焼かれたものと思われます。
第3号蔵骨器は須恵器の短頸壺です。ふたの内面には「大伴(おおとも)」と墨で書かれた文字がみられ、畿内で活躍した大伴氏の流れを汲む大伴部氏(おおともべうじ)が信太郡内に存在した可能性があります。
この3点の蔵骨器は、ものの流通や、火葬を通した仏教の普及、古代氏族のあり方など、古代の律令体制下の動向を解明する上で、多くの視点を提供しうる重要な資料です。
県の有形文化財に指定されています。

『信太入子ノ台遺跡出土蔵骨器1』の画像

『信太入子ノ台遺跡出土蔵骨器2』の画像

小澤家住宅(国登録文化財)

主屋は大規模な寄棟造り茅葺民家で、東面の北側に入母屋造りの式台玄関を設けています。「式台(しきだい)玄関」は公務に用いる出入り口のことで、当時の一般の民家にはみられないものです。式台の奥には「つぎのま」と「ざしき」が続き、座敷には座敷飾り(床、違棚、付書院)を備えます。明治時代中期の建築。
主屋の東方に位置する米蔵は、土蔵造り2階建です。切妻造り妻入り鉄板葺で、西面に出入り口の開戸を設けています。外壁は腰板張りの白漆喰仕上げ。明治4年建築を示す墨書が見つかっています。
表門は主屋の南に位置します。間口2.7mの規模の大きい薬医門で、両脇に袖塀を設けます。切妻造り桟瓦葺き。明治時代中期の建築。
※小澤家住宅は個人敷地内にあり、所有者が現在居住中ですので普段は見学できません。

『小澤家住宅(国登録文化財)』の画像

※美浦村内の指定文化財や遺跡などを紹介したガイドブック「美浦の文化財」を頒布しています。

問い合わせ先

このページに関するお問い合わせは文化財センターです。

〒300-0404 茨城県稲敷郡美浦村土浦2359

電話番号:029-886-0291 ファックス番号:029-886-0471

お問い合わせフォーム
前のページへ戻る このページの先頭へ戻る
印刷する
  • 【アクセス数】
  • 【最終更新日】2019年3月15日